魯山人と鮎

琵琶湖の季節がほどけるころ、小鮎がいっそう旨くなる。
北大路魯山人は鮎について、「鮎はまず三、四寸ものを塩焼きにして食うのが本手」であり、「一番理想的なのは、釣ったものを、その場で焼いて食うことだろう」と書いた 。さらに若鮎については、「その小味はたとえようもない。若鮎には気品の高さというものがある」とまで言い切り、鮎の価値を気品・香気・鮮度に見ていたことが、彼の著作『魯山人味道』(中公文庫/著者北大路魯山人・編者平野雅章)に記されている。
近江の長浜は、魯山人を考えるうえで欠かせない土地だ。彼がまだ福田大観を名乗っていた大正初年、長浜の紙文具商・河路豊吉に招かれ、湖北に逗留した。その時期の仕事として知られるのが、安藤家の離れ座敷「小蘭亭」だ。
近江は彼の感性を育てた舞台であり、食だけでなく、書や意匠の面でも、土地の文化と深く結びついていた。

安藤家外観(長浜市元浜町)
魯山人は、安藤家の離れ「小蘭亭」に住みながら天井絵、襖絵、篆刻額、彫り物、扉、障子、地袋などをデザインから制作まで一貫して手がけた 。魯山人がまだ30代前半で、中国趣味の強い作風を反映した、代表作の一つとされる空間である 。
JR長浜駅から徒歩約5分。「あゆの店きむら 長浜黒壁店」の近くにある 。

魯山人は書家・陶芸家・料理家、そして美食の絶対的権威として昭和にその名を轟かせた人物である。その世界感は、現代のアニメやドラマにも受け継がれている。
例えば、アニメ『美味しんぼ』に登場する美食の権化、海原雄山は魯山人がモデルになっていることはよく知られている。主人公の山岡士郎が認め信頼する料理人岡星精一が営む店「岡星」は、「星岡」という響きに連なる美食文化の記憶が重なる。「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」は、魯山人が1925年に東京・赤坂に創設した会員制の高級料亭だ。彼がこよなく愛した食材が「鮎」であり、最高の鮎を東京で提供するために数々の画期的な工夫や情熱を注いだことで知られている。
星岡茶寮で鮎を論じた魯山人の美意識は、単なる料理談義ではなく、料理を芸術へ引き上げる思想だった。鮎は、ただ食べるものではなく、土地・季節・火・器を含めて成立する「場の美」そのものだった。このことはNHKの特集ドラマ『魯山人のかまど』のエピソードとしても描かれている。

魯山人の原風景

では、魯山人がいま生きていて、あゆの店きむらの「琵琶湖産天然小あゆ煮」を食べたらどう評しただろうか。朝一番に小糸漁で捕れた鮮度抜群の小鮎を、時間を置かずに熟練した職人が小さな釜を用いて直火で少しずつ、数時間つきっきりで炊きあげている。おそらく彼は、まず「活きのよさ」と「煮の手際」を見ただろう。魯山人がもっとも愛した条件にかなり近いのではないだろうか。小あゆ煮は、鮮度を核にして鮎を生かす料理なのである。

近江は福田大観時代の魯山人にとって記憶の原風景である以上、その土地の気配ごと味わうはずだ。小あゆ煮のほろ苦さと山椒の香りを、琵琶湖の夏の風として受けとめるにちがいない。しかし、意外にも魯山人は近江にいながら小鮎を書くことはなかった。
何故だろう……。

魯山人が小鮎を書くことがなかった理由

あれほど鮎にこだわった魯山人だが、調べた範囲では琵琶湖の小鮎について書き残していない。何故だろう……? 想像(妄想)してみた。
琵琶湖の鮎が特別な魚であることを科学的に示したのは、動物学者・石川千代松だった。明治42年(1909)、石川は琵琶湖岸の滋賀県水産試験場でコアユの飼育に成功し、大正2年(1913)には琵琶湖産アユを多摩川に放流して、河川では大型化することを実証した。川を遡上せずに琵琶湖で一生を過ごし、成魚でも10センチ以下にしかならない固有の鮎、その存在が学術的に証明されたのは、まさにこのときである。

石川千代松像(彦根市船町)

その同じころ、まだ「福田大観」を名乗っていた魯山人は、長浜の河路豊吉に招かれ、湖北に逗留していた。石川千代松が、琵琶湖の鮎の特別さを東京・多摩川で証明しようとしていたその時に、のちの美食の権威は、長浜の離れ座敷「小蘭亭」で筆を執っていたのである。
だが、その発見は、すぐには広く世に届かなかった。琵琶湖産アユが全国の河川への放流種苗として本格的に普及し始めるのは大正13年(1924)以降であり、「琵琶湖の小鮎は、固有の特別な鮎である」という認識が、美食家たちの言葉に入り込む余地は、まだなかった。
魯山人の鮎論は根本のところで渓流を遡上する鮎を前提としていた。川藻を食み、急瀬の水気を身にまとって育つ鮎こそが鮎である、という美学のなかに、プランクトンを糧に湖を泳ぎ、小さなまま一生を終える鮎は、もともと入り込む余地がなかったのだ。たとえ知っていたとしても、「渓流激瀬」、彼の筆が向く対象ではなかったのかもしれない。しかし皮肉なことに、「産地の名」より「鮮度」を、「小さくとも気品」を重んじた魯山人の言葉は、彼が書き残さなかった小鮎の本質を、かえって正確に言い当てているのではないだろうか。
大正の近江で、科学者は小鮎の正体を証明しようとしていた。美食家は鮎の気品を語ろうとしていた。ふたりは交わることはなかったが、100年後、その発見と美意識は「あゆの店きむら」の釜の前で、静かに重なり合っている。

参考:『魯山人味道』(中公文庫/著者 北大路魯山人・編者 平野雅章)

小あゆ煮と山椒入小あゆ煮

琵琶湖産の天然小鮎を、捕れてから時間を置かずに鮮度抜群の状態で煮上げています。

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