子持ち鮎の姿煮によせて

甘露

  甘露……、疑いもなく私たちは「甘い」という味覚を受け入れている。だが、この「甘露」という言葉の奥には、砂糖や水飴とはまるで縁のない、遥か遠い世界の物語が横たわっている。
  甘露とは、サンスクリット語の「アムリタ」の漢訳で「不死」を意味する。古代インド神話では、不老不死になる神々の飲料(霊薬)を指していた。仏教にも、「甘露」という言葉は深く根を下ろしている。お釈迦さまは悟りを開いたのち、その真理があまりに深遠であるがゆえに、人々に説くことをためらったという。そこに梵天  インド古来の信仰における創造神で、仏法を守護する存在  が現れ、「どうかこの甘露の門を開いてください」と懇願した。そしてお釈迦さまは「我今甘露の門を開かんと欲す」と心をお決めになった。甘露とは「悟り」そのもの、苦の消えた境地を指す比喩となった。
また、中国の古い伝承では、甘露はまた異なる意味をもつ。為政者が善政を敷けば、天がその瑞祥として甘い露を降らせるのだという。『漢書』には、宣帝の時代にこの甘露がしばしば降り、元号としたと記されている。更に、中国の歴代王朝ではこの言葉が縁起の良いものとして何度も元号に使われており、三国時代の魏や呉など複数の王朝で「甘露」の元号が存在する。
甘露とは、本来「甘い」ことそのものを指す言葉ではなかった。不死であること、悟りに至ること、そして天が治世を寿ぐこと……、パーフェクトな状態やニュアンスを示す言葉だったと考えることができる。
余談だが、アニメ『鬼滅の刃』に登場する甘露寺蜜璃(かんろじみつり)は鬼殺隊の最高位である「柱」の一人で、独自の「恋の呼吸」を使う。千数百年を隔てて、言葉が形を変えながらキャラクターの名となっている。そして私たちはなんとなくではあるけれど、その名のニュアンスを知っているところが「甘露」の神秘なのかもしれない。

甘露煮

その甘露が、いつしか日本の食卓に降りてきて、調理法「甘露煮」となった。
秋、産卵のために川を下る鮎を「落ち鮎」という。お腹に卵をびっしりと抱えた子持ち鮎は、夏の若鮎が放つ清冽な香りとは異なり、卵の歯ごたえとコクを増した身の旨みがある。産卵を終えれば、鮎は一年に満たないその生涯を終える。
子持ち鮎の姿煮は、いわば命を次代へ渡そうとする一匹の鮎の最後の輝きを姿のまま受けとめる料理なのである。

琵琶湖の伝統を伝えるあゆの店きむらは、子持ちの鮎を日持ちよりも美味しさに心を込めて、とろ火でじっくりと炊き上げている。小さな釜で6~7時間、黄金色に輝く美しい姿をそのままにその調理の過程は、どこか「悟り」にも似ている。
私たちが味わっているのは、単なる鮎の煮つけではない。大袈裟にいえば、天が降らせたという瑞祥の露、悟りへの門、そして一匹の魚が命を賭して蓄えた卵……遠く隔たったいくつもの「甘露」が、小さな一皿のうえに、静かに重なり合っているのだ。

しかし……そもそも甘露煮は甘くはない。甘さの次元がはねあがっているのだ。
確かに甘露煮はそう「甘くない」話なのである。 

子持ちあゆの姿煮

昔ながらに地醤油と地酒を使い、まろやかな味わいに仕上げています。

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長寿と湖の経験値

 琵琶湖畔では、鮒寿しや鮎のなれ寿しは、単なる保存食や嗜好品にとどまらず、古くから「体の調子を整える万能の民間薬」として珍重され、庶民の暮らしのなかで効能が言い伝えられてきた。
 令和2年、厚生労働省が公表した都道府県別生命表において、滋賀県は男性の平均寿命が全国第1位、女性が第2位となった。滋賀県はこの要因の一つに食塩摂取量の低さを挙げている。長寿の秘訣を塩をたっぷり効かせ、幾月もかけて漬け込む鮒寿しや鮎のなれ寿しなどの発酵食品に求めるのは、いささか都合が良すぎる。それでも、なれずしと長寿を並べて語りたくなるのには、別の理由がある。
 琵琶湖のほとりで千年以上受け継がれてきた「待つ」食文化には、数値上の塩分量だけでは測りきれない豊かな食の美学が存在する。

 なれずしの塩分は、乳酸菌以外の腐敗菌を淘汰するために機能する。そうして厳選された乳酸菌と時間が魚をゆっくりと分解し、胃腸に負担をかけない非常に消化・吸収の良い形態へと変えていく。
 効率や即時性、規格化を追求するファストフード的価値観とは対極にある、真のスローフードである。琵琶湖の恵み、先人の知恵、そしてじっくり熟成を待つ時間。近江の発酵文化は、文明の力や添加物に頼らず、自然の営みにすべてを委ねて作られる。土地の風土と歳月が育む、素材本来の旨味を凝縮させる錬金術だ。
 なれずしは魚を劇的な魔法の薬に変えるものではない。しかし、塩を打ち、重石をのせ、時間を味方につけて食を慈しむ姿勢は、現代人が見失いがちな食の真価を教えてくれる。
 なれずしはそういう時間もいっしょにいただくのである。

クセなく旨味引き立つ「鮎のなれ寿し」

 近江の風土と琵琶湖が育んだ発酵食文化の代表格といえば鮒寿しだが、「鮎のなれ寿し」もまた、洗練された味を持つ伝統食だ。
 鮒寿しは、ニゴロブナの重厚な旨味と独特の力強い濃密な風味が特徴である。これに対し、鮎のなれ寿しは軽やかで上品な味わいだと評されることが多い。鮎は鮒に比べて骨や皮膚がやわらかく、脂肪分も適度で身が繊細であるため、発酵の進行が滑らかであり、クセの少ない酸味と旨味が生まれる。
 あゆの店きむらが丹精込めて育てる鮎は、一尾一尾の品質にばらつきが少なく、漬け込んだときにむらなく発酵が進む。食感は、有機酸(乳酸)の作用で頭から尻尾まで違和感なく噛み切れるほどやわらかく、身はしっとりと引き締まりながらも、口のなかでとろける絶妙な感じが心地良い。「噛みごたえ」というのだろうか……。明らかに鮒寿しとは異なる口福感がある。
 鮎の旬は、本来夏から秋のごく短い間に限られる。だが、なれずしにすることで、その一瞬の味わいは1年を通じて楽しめるものへと姿を変える。
 丹精込めて育てた鮎だからこそ、味わっていただきたい。鮒寿しとは一線を画するなれずしなのだ。

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