おいしい鮎を育てています。

NHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公は、植物学者・牧野富太郎(まきのとみたろう)。日本植物分類学の基礎を築き、植物学の父と呼ばれた人物です。明治14年(1881)、富太郎は初めて滋賀県の伊吹山を訪れ、その後もたびたび植物採取を行っていました。彦根城の固有種「オオトックリイチゴ」を発見し命名したのも富太郎です。
 ドラマでは和菓子屋で働く西村寿恵子と結婚しますが、史実は旧彦根藩士の小沢一政の娘「寿衛(すえ)」と結ばれます。あゆの店きむらのある彦根市とも少なからずご縁がありました。
 『牧野富太郎自叙伝』に「当時、三好学・岡村金太郎・池野成一郎等はまだ学生だったが、私は彼等とは親しく交際した。私は教室の先生達とも親しく行き来し、松村任三・石川千代松さんなどは、私の下宿を訪ねてくれたし」と記しています。「石川千代松さん」というのは、日本の動物学者で、『進化論』を日本に紹介したことで知られる人物です。明治42年(1909)、琵琶湖岸の滋賀県水産試験場の池で小鮎の飼育に成功し、さらに小鮎を東京の多摩川に移入し、大きく育つことを実証しました。以来、小鮎は「鮎苗」として全国の河川に放流されるようになったのです。
 あゆの店きむらは、明治25年の創業。昭和16年木村庄一が全国に先駆け琵琶湖畔で鮎の養殖事業に取り組み、昭和32年、2代目木村隆太郎が現在地で琵琶湖産鮎を種苗に養殖池で鮎を育て始めました。  石川千代松が琵琶湖の小鮎と大鮎が同じ種だということを証明していなければ、「木村鮎」は生まれなかったかもしれません。現在、養殖の技術も進歩し、鈴鹿山系のミネラル豊富な伏流水を地下100メートル以上から汲み上げ、養殖池に河川上流部と同じ速さの流れを再現し、5~6ヶ月かけて鮎を育てています。そうすることで、一般的な養殖鮎に比べて脂肪分が半分近くも低く、天然鮎に近いおいしい大鮎になります。
 牧野富太郎と石川千代松の邂逅が連続テレビ小説「らんまん」で描かれているかどうかはわかりませんが、あの時代のあの雰囲気のなかで、あゆの店きむらの先代も養殖にチャレンジしていたのでした。
 先代が石川千代松や牧野富太郎と言葉を交わしていたかも……と、妄想の翼をドラマを観ながら広げています。

活〆あゆ(生)化粧塩・タデ酢付

*消費期限 冷蔵3日間

6尾入 / 10尾入

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石川千代松先生像

彦根市船町 地図はこちら

石川千代松(1861?1935)は、大正2年に琵琶湖の小鮎を東京多摩川に試験的に移入し、琵琶湖産の小鮎が大鮎に育つことを実証した。最初の実験地多摩川の青梅大柳河原に、「若鮎の碑」が、小鮎の産地である琵琶湖畔の彦根市に「石川千代松先生像」が建てられた。

 「うなぎや源内」は城下町の伝統を継承した格子窓、袖壁、白壁、軒庇が続く古くて新しい町なみ「夢京橋キャッスルロード」にあります。国内の産地から送られてきた鰻をすぐには料理せず、3?4日地下水にさらします。地下100メートルより深いところから汲み上げた鈴鹿山系の伏流水は、ミネラルが豊富で、身の引き締まった臭みのない鰻に仕上げることができるのです。
 早朝、店で使う鰻を生きたまま氷水でしめ、関西らしく腹から割いて内臓と背骨を取り、備長炭を用いて表面はカリッと中はふっくら柔らかに焼き上げ、観光のお客さまや地元の皆さまにご愛顧いただいております。
 「うなぎや源内」の創業は平成23年(2011)、コロナ禍で計画が延びておりましたが今年3月、よりいっそうご満足いただけるようリニューアルオープンいたしました。
 1階には庭を眺めることができるテーブル席、2階には個室を新たに設け、落ち着いた空間で食事をしていただけます。鰻だけでなく、琵琶湖の特産品もメニューに加え、御膳や会席も楽しんでいただけるようになりました。彦根散策のおりには、ぜひお立寄りください。

2023年の夏の土用丑の日は 7月30日(日)です。

妖怪「蓑火」と小糸漁

近頃は妖怪がブームである。簔火は、滋賀県彦根市の大藪村(現大藪町)辺りの湖岸に出没した妖怪だ。『百鬼解読』(多田克己著)に、明治時代の妖怪研究家井上円了の一文が引用されている。
「近江の琵琶湖には不思議な火があると古老は言う。旧暦五月頃の幾日も降り続く梅雨の、ま近な景色もよく見えないほどの天気の暗夜になると、湖水を往来する船夫の簑に、まるで蛍火のようなものが点々と光を放つ」。
 蓑は、稲藁などの植物を編んだ雨具のことだ。現代のレインコートのように、雨で身体が濡れるのを防ぐための外套である。何隻も漁船が出ていたら、湖水を移動するイルミネーションのようで綺麗な風景を想像したりするが、実際は貧困に苦労する漁師の悲しく辛い「怪火」なのである。
 蓑火は江戸時代にもよく知られていたようだ。浮世絵師鳥山石燕は『今昔百鬼拾遺』に、「耕作に苦しめる百姓の臑(すね)の火なるべし」と一文を添え蓑火を描いている。芭蕉十哲の一人、彦根藩士の森川許六(きょりく)は、「大藪(略)此所むかしより今にいたる迄、雨夜に人通ればいづこよりうつるともなく火の光り、蓑にうつる傘及び袖にうつる誠の火にあらず、これを星鬼の火といふなり」と『風俗文選』に書いている。

小鮎の小糸漁は深夜から夜が明けるまで行われる

また、明治14年(1881)に編纂・発行された『犬上郡誌』に、「蓑火の古跡は大藪村にあり」 「その火を払へば星のように散らばり、星鬼という」とある。
 面白いのは、許六は「星鬼の火」が蓑にうつると書いている。『犬上郡誌』は、蓑火を払うと星のように散らばり、これを「星鬼」としている。おそらく近江では、「星鬼の火」が「簑火」になり、「簑火」から「星鬼」と形状を変える怪火が出没したということになる。近江には日本一の大きさを誇る湖があり、妖怪の現れ方も他府県にはない独特のものになるのだろう。
 しかし、疑問もある。何故、琵琶湖畔ではなく大藪という地域限定なのか。「ま近な景色もよく見えないほどの天気の暗夜」に船を出す漁とは、どんな漁なのか……。
 おそらく漁は梅雨の時期を考えると、「小糸漁」ではないのかと見当がつく。小糸漁は、春先から初夏にかけてが最盛期なのだ。小鮎が夜に沿岸部で餌を食べ、明け方沖に帰っていくという習性を利用した琵琶湖独特の刺し網漁で、夜の11時頃から翌日、日が昇るまで行われる(詳しくはio 2023 春号)。
 簑火は小糸漁に出た漁師の蓑にともる怪火なのである。何故大藪なのかは、今のところわからないが、いずれ考察したい。

琵琶湖では川を遡上せず、湖で育つ鮎がいる。この鮎が琵琶湖にしか棲息しない「小鮎」で、成魚でも10センチ以下である。あゆの店きむらでは、朝一番、小糸漁で捕れた鮮度抜群の小鮎を、熟練した職人が小さな釜を用いて直火で少しずつ、数時間つきっきりでふっくら炊きあげている。

びわ湖産天然 小あゆ煮

自然の持ち味を生かして、丹念に煮あげた逸品です。 鮮度抜群・琵琶湖産の天然の小鮎を、時間を置かずに小さな釜で少しずつ、熟練した職人が直火で数時間つきっきりで煮上げています。 仕上がりもふっくら柔らかで、まろやかな味わいに仕上げています。

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琵琶湖周航の歌と古城

未草(ひつじぐさ)

 近江を旅すると、何処かのまちで「琵琶湖周航の歌」が流れている。メロディーだけかもしれないし、加藤登紀子さんが歌うそれかもしれない。大正6年(1917)に誕生したこの歌は100年を越えて歌い継がれている。当時、小口太郎の作詞作曲として知られた「琵琶湖周航の歌」は、後の調査で吉田千秋という青年が発表した「ひつじぐさ」が原曲だったことがわかり、今では「作曲 吉田千秋」と記されている。
 「ひつじぐさ」は大正4年(1915)雑誌『音楽界』(音楽社)に掲載された曲で、19世紀のイギリスの詩「Water Lilies(ウォーター・リリーズ)」を翻訳し曲を付けたものだ。「ひつじぐさ」の漢字は「未草」。夏……、池や沼の水面に清楚な花を咲かせるスイレンである。「未」は昔の時刻の数え方「十二刻」のひとつで、現在の午後2時頃をいう。「未の刻」に花が開くことからこの名がある。スイレンの漢字、「睡蓮」は午睡の夢のなかで咲くようで美しい。
 小口太郎は、第三高等学校(現京都大学)の水上部に入部し、琵琶湖と出会う。三高の水上部では毎年6月に大津の艇庫を出発し、3泊4日(諸説あり)の琵琶湖周航オリエンテーションが行われていた。大正6年6月27日、大津を出発した小口らは雄松崎(近江舞子)で1泊。翌日は今津まで移動。ここで太郎が書き留めていた詩を「ひつじぐさ」のメロディーにのせるとぴったりと合い「琵琶湖周航の歌」が生まれる。
 吉田千秋は大正6年、「ひつじぐさ」が「琵琶湖周航の歌」として歌われることを知らないまま、大正8年(1919)に24歳でこの世を去ったといわれている。吉田千秋が「ひつじぐさ」を発表したのも、小口太郎が「琵琶湖周航の歌」を作詞したのも21歳のときだった。

古城(こじょう)

「琵琶湖周航の歌」は、小口太郎が綴った大津から西回りに湖からの風景が歌われている。5番の歌詞は彦根城である。

矢の根は 深く埋もれて
夏草しげき 堀のあと
古城にひとり 佇めば
比良も伊吹も 夢のごと

 景色を思い浮かべながら歌を聴いていると、「古城にひとり佇めば」のところで視点が変わり、「?」となる。この5番だけが、上陸した描写で、違和感がある。そして、語数の問題もあるだろうが何故、彦根城を「古城」と記したのかも疑問……だ。

『近江鉄道湖東御案内』(個人蔵)部分

 大正4年、近江鉄道多賀線開業の翌年に発行された吉田初三郎筆の『近江鉄道湖東御案内』に、彦根城の表記はなく、代わりに「古城山迎春舘」とある。迎春舘(館)は明治43年(1910)、東宮行啓のために、彦根城内西の丸に新築された御休憩所である。
 『近江鉄道湖東御案内』というからには、旅する人がひと目で移動先と名所や名物がわかるようになっているはずだ。そこに「彦根城」ではなく「古城山」とある。当時の人々にとって、「古城」と呼ぶのが普通のことだったのではないのか……。
 「古城」は「湖上」と掛け、湖から彦根城を遠望しているのではないだろうか。過ぎ去った時代を偲ぶ気持ちが「古城」という言葉に込められ、「比良も伊吹も」と雄大な風景を重ねることができるのだ。そう考えると、「琵琶湖周航の歌」の1番から6番全てが湖上からの風景であると、合点がいくのだ。
 滋賀県と彦根市は、2025年に彦根城の世界文化遺産登録を目指している。夏、「古城」を湖から遠望してみてはどうだろう。
 午睡のごとくに……。