霰せば網代の氷魚を煮て出さん

霰(あられ)せば

琵琶湖では鮎の幼魚を氷のように体が透きとおっていることから「氷魚(ひお)」と呼びます。「こおりのいお」、「ひうお」、「ひのいお」の呼び名も伝わります。大きさ2?3センチの繊細で美しいガラス細工のような魚です。氷魚が獲れるのは12月?3月頃で5月頃には小鮎と呼ばれるようになります。近江を愛した芭蕉は「霰せば網代の氷魚を煮て出さん」と詠みました。句意の解説は専門家に任せるとして、湖の鮎と暮らす「あゆの店きむら」の私たちは、空から落ちてくる霰(氷の粒)が湖面に落ち、カタチを変えて氷魚になるような幻想的なイメージを想い浮かべます。

網代(あじろ)

「網代(あじろ)」は、竹や木を編み川の瀬に仕掛ける昔から行われている素朴な漁法です。また、平安時代、朝廷は琵琶湖周辺に御厨(みくりや:本来、神の台所の意)・網代という特別な領地を設け、水産物を献上させていました。大津には堅田、粟津、勢田(瀬田)の御厨、田上網代がありました。田上の網代は特に有名だったようです。
彦根にも、「網代口」という地名が残り、その北は御厨だった「筑摩(ちくま)」です。

煮て出さん

「あゆの店きむら」は、「氷魚(稚あゆ)の釜あげ」と「粒山椒入稚あゆ煮」を商品としてお届けしております。釜あげにした氷魚のしっとりとた繊細な味わい、木の芽の香りがアクセントの稚あゆ煮、どちらも琵琶湖畔でしか味わえない冬の味覚として愛されてきました。「煮て出さん」というのは「釜あげ」なのか「醤油煮なのか」気になっています……。冬、私たちは獲れたての氷魚を釜あげにします。熱を加えると氷魚が一瞬で白くなり、鍋の中で滞留し泳いでいるようにも見えます。霰が透明な氷魚に、そして綺麗な白に……。芭蕉が詠んだ琵琶湖の冬、湯気がたちこめる草庵の光景が浮かんできます。おそらくは、釜あげではなかったかと、想い浮かべるのです。

氷魚(稚あゆ)の釜あげ
粒山椒入稚あゆ煮

早春から販売を予定しています。毎年、獲れたて炊きたての氷魚をこ゛用意いたします。数に限りか゛あり、不漁場合こ゛提供て゛きない場合もこ゛さ゛います。

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本物という意味を込めた「本もろこ」

琵琶湖産のホンモロコは、同じコイ科の淡水魚のなかでも特に美味で、昔から冬の時期に獲れるホンモロコは身が引き締まり骨も柔らかく絶品だといわれ、子持ちは更に珍重されています。琵琶湖にはスゴモロコ、デメモロコ、タモロコが棲息していますが、ホンモロコは固有種です。モロコは漢字で「諸子」。「諸々」は「多くのもの」「さまざまなもの」の意味がありますから、一般的な魚だったことがわかります。かつては身近な美味しい魚でしたが、近年、ブラックバスやブルーギルの影響で激減し、今では滅多に食べられない高級魚として扱われています。あゆの店きむらの「本物のホンモロコ」という気持ちを込めて商品名を「本もろこ」としています。じっくりと炊きこみ、まろやかで深みのある風味に仕上げました。

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風味豊かな「寒しじみ」の味噌汁

冬は、しじみが美味しい季節です。湖底の砂に潜ったしじみはたっぷり栄養を蓄え、この時期に獲れるしじみは特別に「寒しじみ」と呼ばれます。あゆの店きむらの「しじみ味噌汁」は、「セタシジミ」を使用しています。体に良いといわれるオルニチンやタウリンなどの多くの栄養成分が含まれています。栄養豊富でコク・旨味たっぷり琵琶湖産天然セタシジミのお味噌汁で、ほっこりあったまりませんか。セタシジミは琵琶湖の特産(固有種)で、ヤマトシジミなどに比べ、殻が厚く、コクがあるといわれています。味噌汁の風味をより一層引き立たせ、味わい深く仕上がっています。

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鮒ずしの物語 「贅沢な汁」

鮒寿しは琵琶湖の畔で、半農半漁の暮らしを営む人々が経験的に生み出した伝統的な食文化だということはよく知られている。保存性に優れ、滋養に満ちた発酵食品で、人の五感に頼り、発酵させる淡海のスローフードだ。「米を糠床に漬けた魚の漬け物だ」と説明されることも多い。湖の暮らしに育まれながら、さまざまな切り方・食べ方が鮒寿しにはある。淡海の人にとっては、体調が優れなかったり、お腹をこわしたときや風邪をひいたとき、それは当然のように食卓にならぶ滋養に満ちた食べ物であった。食卓の鮒寿しには家族の健康を願う、母や祖母の気遣いが込められたとても懐かしい故郷の味なのである。勿論、鮒寿しは手間と暇をかけたハレのご馳走、おもてなしのご馳走で、初めてそれを食べる人にとって「珍味」、そして「名物」となった。

季節は冬……。酒の肴としてはいうまでもないが、この季節は「鮒寿し汁」である。大抵は食べ残す頭と共に漬け込んだ飯を深めの茶碗に入れ熱湯を注ぎいただく。これに土生姜をすりおろしたものを好みによって加え、頭と共に、子持ちの切り身を一切れ二切れ入れて、三つ葉などをあしらうと贅沢で立派な汁物の一品となる。熱い番茶をかけるのもいい。身体が芯からホコホコと温まってくる。ただ、問題は匂いである。独特の強い個性がある。初めて「鮒寿し汁」を経験する人にはかなり気になるだろう。昔から、風邪をひいた時やお腹の具合が悪いときにわざわざ食べた滋味なのだが、こればかりは「旨いか不味いか」、食後の感想は明確に分かれるだろう。匂いの先に味わう世界がある。五感で味わうとはよくいったものである。一度、お試しあれ。国宝・彦根城の近く、夢京橋キャッスルロード沿いにあるあゆの店きむら「夢京橋店」でご用意しています。

今も昔も名物に変わりなし

「近江鉄道沿線の栞」(個人蔵)

地図は昭和3年、湖東平野を走る近江鉄道の全線電化を記念してつくられた沿線案内「近江鉄道沿線の栞」の一部分です。まだ、彦根・米原間は未開通で、鳥居本駅も存在していません。その代わり多賀・高宮間に土田という駅があります。彦根には内湖があり、宇曽川堤の桜が名所として記されています。彦根城が桜の名所となるのは少し先の未来のことです。湖岸には「鮎名物」「鮒名物」と記されています。当時の旅の様子を楽しく眺めることができます。沿線案内の役目は、旅する人に、その土地で観ておくとよいもの、味わっておく、或いは、お土産にするとよいものを紹介することです。そして、「名物」とはその土地にしかない特別なモノをいいます。日本の湖沼や河川に広く棲息する鮎や鮒が琵琶湖の名物として知られるにはそれなりの理由があるはずです。湖には「小鮎」。湖岸から多賀へ川をたどってみると、ここにも「鮎名物」と記されています。初夏から夏にかけて川を遡上し大きく育った鮎のことでしょう。鮒は琵琶湖独特の食文化を代表する「鮒寿し」があります。旅が今ほど容易でなかった時代、彦根で味わうべき名物として「鮒」と「鮎」を記しているわけです。そして今も「名物」は変わりなく、より洗練されて受け継がれています。

彦根城の中堀は養魚場だった

国宝・彦根城は「あゆの店きむら」本店のある彦根市にあります。今、2024年の世界遺産登録を目指し、「彦根城とその周辺資産は江戸時代の武士による統治や社会を最もよく伝えており、唯一無二の存在である」という普遍的価値の証明をしようとさまざまな努力が成されています。学術的な価値はさておき、現在の彦根城は、二重の堀に囲まれています。城にはお堀があるのは当たり前のことと思われるかもしれませんが、実は、江戸時代にあった約150の城は、明治時代以降に堀を埋め立てて市街地化されることが多く、二重の堀が完全に残っているのは、彦根城を含めて数えるほどしかありません。堀に囲まれた空間は、大名と重臣の住まいや儀礼のための場所として使われていました。中堀沿いには、佐和口、京橋口、船町口、長橋口という4か所の出入り口がありました。現在は誰もが自由に城内へ立ち入ることができますが、彦根藩領以外から来た者は原則として立ち入り禁止。城外に住む領民(百姓・町人)は、特別な通行許可証がないと立ち入れませんでした。家老が門番に示した通行規則によると、城内に住む重臣の家に来客があるときは、事前に家老の許可が必要で、監視役が付けられました。中堀の内側は、藩政の中枢であり、機密空間だったのです。

彦根城天守(西の丸から撮影)

明治時代の中堀

実は江戸時代の彦根城には、敵の侵入を防ぐため内堀・中堀(現在の外堀)・外堀と三重の堀をめぐらせていました。明治時代には、外堀の一部が埋め立てられたり、あるいは借り受けられて蓮の栽培や養魚場に利用されたりすることもありました。彦根城の外堀が埋め立てられたのは昭和年代後半のことでした。
中堀は明治年(1907)前後から大規模な養魚事業が滋賀県水産試験場により実施されるようになりました。明治年(1906)四月、県水産試験場が彦根城中堀7540坪(約2.5ヘクタール)を借り、鯉苗養成池としました。次いで明治年(1908)4月、彦根城の中堀のうち船町口御門から京橋口御門を経て佐和口御門に至る1万5928坪(約5.3ヘクタール)を区画して鯉苗養成池とし、彦根養魚場を新設しています。新設以来、鯉苗に重要な役割を果たしてきた彦根養魚場でしたが、昭和年(1966)に廃止され、年の歴史に幕を下ろしました。「苗」は「養殖用の稚魚や卵」のことをいいます。鯉の稚魚や卵は「鯉苗」、鮎ならば「鮎苗」です。
昔から琵琶湖畔の暮らしは、湖からさまざまな自然の恵みを受けてきました。獲る水産業だけでなく育てる水産業の動きが明治時代の末期からはじまったのです。滋賀県の取り組みは早く、明治11年(1878)にビワマスの増殖を図るため坂田郡醒井村(現米原市醒井)に設置された孵化場がはじまりでした。

中堀(現在の外堀)から天守・二の丸をのぞむ

あゆの店きむらの養殖

あゆの店きむらは、明治25年創業。昭和16年、木村庄一が全国に先駆け琵琶湖畔で鮎の養殖事業に取り組み、昭和32年、2代目木村隆太郎が現在地で琵琶湖産鮎を種苗に養殖池で鮎を育てはじめました。以来、高品質な鮎の生産に努め、ブランドとして東京豊洲をはじめ、国内外のお取引様から高い評価を得ています。また、私たちは養殖した成魚を河川に放流し「、琵琶湖資源再生サイクル」に取り組んでいます。淡海の「獲るから育てる水産業」が、世界遺産に登録されようとする彦根城の中堀で行われていたことを誇らしく思っています。