おいしい鮎を育てています。

あゆの店きむらは、明治25年創業。昭和16年、木村庄一が全国に先駆け琵琶湖畔で鮎の養殖事業に取り組み、昭和32年、2代目木村隆太郎が現在地で琵琶湖産鮎を種苗に養殖池で鮎を育て始めました。以来、高品質な鮎の生産に努め、ブランドとして東京豊洲をはじめ、国内外のお取引様から高い評価を得ています。

琵琶湖産鮎

琵琶湖産鮎を養殖用の種苗に使用しています。人工的に卵から孵化させて育てた鮎に比べて、姿・形が美しく、うろこが細かくなめらかで、骨や皮が柔らかく、食感に優れています(琵琶湖産鮎は平成19年に地域団体商標に登録されました)。

ミネラル豊富な伏流水仕込み

鈴鹿山系の伏流水(日本名水百選「十王の水」を含む)を地下100メートル以上から汲み上げたミネラル豊富な良水を使い、比較的低温水で長期間(56か月、一般的には45か月)かけてじっくりと育成しています。

養殖池

河川上流部と同じ速さの流れを養殖池の中に作り出すことによって、無駄な脂が落ち、身が締まった、上品で淡泊な味わいを持つ鮎に仕上がります。当店の鮎は一般的な養殖鮎に比べて脂肪分が半分近くも低く、天然鮎に非常に近い数値を表しています。

活〆あゆ(生)化粧塩・タデ酢付

*消費期限 冷蔵3日間

6尾入 2,592円
10尾入 4,320円

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「活〆あゆ」のBBQ

いつもの夏ならば、気のおけない仲間たちとBBQ! でも今年は昨年に引き続きコロナ禍の夏。遠くへ出かけたりみんなで集まるBBQは少し我慢して、巣ごもりBBQ。清流の女王と呼ばれる「鮎」を料理のバリエーションに加えてはいかがでしょう。

誰でも簡単!バーベキューで失敗しない、鮎を美味しく焼く方法!

ステップ1
生鮮鮎に串を刺して、アルミホイルの上で塩を振ります。
ステップ2
そのままアルミホイルに包みます。炭と網の間の距離を適度に保ち、ホイル焼きにします。
ステップ3
簡単にアルミホイルが外れる状態になったら取り出し、直接網の上で両面をパリッと焼き上げます。

参考:全国鮎養殖漁業組合連合会ウェブサイト

名物 京橋うなぎ

土用丑の日とは

「土用」とは、立春、立夏、立秋、立冬の直前の約18日間のことをいいます。夏の土用は立秋の前の18日間、日本では最も暑さが厳しい時期にあたります。昔の暦は日にちも十二支で数え、梅雨明けの頃と重なる夏の「土用丑の日」は、薬草風呂に入る「丑湯」、お灸をすえる「土用灸」、「丑の日」に身体によい「う」のつく食べ物(梅干し・瓜・うどんなど)を食べるなど特別な日だったようです。夏バテしないよう身体に気を使い、体力の回復に努めたのでしょう。

「う」のつく「鰻」

「土用丑の日」に「う」のつく「鰻」を食べるのは、一説に江戸時代の蘭学者(発明家)平賀源内が夏場に売り上げが落ちる鰻屋の相談を受けて考案した「本日土用丑の日」という宣伝文句にあるといわれています。このキャッチコピーで鰻屋は大繁盛、以来、多くの店が真似をし、今では誰もが「土用」といえば「鰻」を連想するほどです。

うなぎや源内

「あゆの店きむら」が、鰻料理専門店としてオープンしたのが「うなぎや源内」。店名は鰻屋のキャッチコピーを考えた平賀源内に由来します。
 鹿児島や宮崎などの産地から送られてきた国産鰻を「立水」という保管場所で、3?4日地下水にさらしてから調理しています。地下100メートルより深いところから汲み上げた鈴鹿山系の伏流水は、ミネラルが豊富で、身の引き締まった臭みのない鰻に仕上がるのです。
 早朝、その日店で使う鰻を生きたまま氷水でしめてから、関西らしく腹から割いて内臓と背骨を取り、備長炭を用いて、表面はカリッと中はふっくら柔らかに焼き上げています。

江戸時代の彦根名物

彦根市のシンボルは小高い山の上に天守を戴く国宝・彦根城。江戸時代は井伊家の居城でした。滋賀県と彦根市は2024年に、彦根城の世界遺産登録を目指しています。
 江戸時代元禄年間に成立した近江地域の地誌『淡海録』のなかの「江州海陸土産」に彦根地域の特産物として、佐和山松茸・松原海老などとともに「京橋うなぎ」が挙げられています。京橋は彦根城の中堀(現在の外堀)に面した4つの城門のひとつ京橋口御門に架かる橋です。元禄年間にどんな鰻料理が名物だったのか興味津々、ただ今、調査研究中です。
 「うなぎや源内」は、彦根城の外堀近く、夢京橋キャッスルロードに店を構えています。彦根を散策の折にはぜひ、お立寄りください。

不老長寿・無病息災・病魔退散を祈る

淡海の人魚

新型コロナウイルスの感染拡大とともに話題になった「アマビエ」という妖怪がいる。弘化3年(1846)4月中旬の瓦版で報じられた妖怪だ。
肥後の海中に毎夜のように光るものが出没する。役人が調べたところ、それは「アマビエ」と名乗る怪物で、6年間の豊作を予言し、病気が流行したら自分の姿を写して人々に見せるようにと伝えて海中に消えたという。全身が鱗で覆われ、嘴のような口、足先にも届きそうな長い髪、寸胴、3本の足、菱形の可愛い目をしたアマビエの絵が載っている。その姿は人魚のようだ。

『肥後国海中の怪(アマビエの図)』(京都大学附属図書館所蔵)

ところで、人魚に関する日本最古の記録は『日本書紀』にある「蒲生河に物有り。その形人の如し」。蒲生河は、琵琶湖にそそぐ日野川またはその支流の佐久良川といわれている。
東近江市川合町の願成寺に「人魚のミイラ」(全長約72センチ・非公開)が今も供養されている。願成寺は聖徳太子により創建された寺である。こんな話が伝わっている。
願成寺の末庵に美しい尼僧が住んでいた。そこへ可愛らしい三人の小姓が毎日手伝いにやってきた。村人は何処からやってくるのか気になり、後をつけると佐久良川の小姓ヶ淵に消えていった。投網を打ち捕まえてみると人魚だった。一人は哀れにもミイラにされ見世物として転々と人手に渡った。ミイラを所有した家では夜な夜な泣き声が聞こえ不幸がおこるので、人魚を気の毒に思う人たちによって願成寺に安置された。もう一人は、通りかかった弘法大師に助けられ、和歌山県橋本市・西光寺の学文路苅萱堂(かむろかるかやどう)の人魚のミイラ(拝観可)として不老長寿や無病息災を願う人々の信仰の対象となった。そして最後の一人は佐久良川を遡り日野町小野で、人を害する(仇なす)と後醍醐天皇(聖徳太子とする話もある)の命で殺され人魚塚に葬られた。人魚塚は三重県側が正面になっており、昔、ここを通る人が小石を投げる風習があったという。
観音正寺(近江八幡市安土町)は、草創の歴史として人魚伝説が今も語り継がれている。推古天皇の御代、近江国を遍歴していた聖徳太子の前に湖水から人魚が現れ、「私は前世漁師であり殺生を業としていたため、このような姿になった」と救いを求めた。太子はその願いを聞き入れ、千手観音の像を刻み堂塔を建立した。寺宝として人魚のミイラがあったが、平成5年(1993)焼失した。
淡海の異形の人魚は聖徳太子とともに語られ、絵ではなくミイラとして遺ったところが興味深い。

山中にあるのが不思議な日野町小野の人魚塚

「ハリー・ポッターと魔法の歴史」展

昨年、新型コロナウイルスの影響により開催が延期になっていた特別展「ハリー・ポッターと魔法の歴史」が、兵庫県立美術館(2021年9月11日~11月7日)、 東京ステーションギャラリー(2021年12月18日?2022年3月27日)で開催予定だ。 2017?2018年にロンドンの大英図書館で開催された展覧会の国際巡回展である。 日本の18世紀の人魚も展示されるという。BBC製作の同名の番組に一瞬映っていた。苅萱堂の人魚のミイラによく似ている。ということは……淡海の人魚がモデル!? 魔法生物としてどのような解説がされるのか興味津々である。

鮒ずしの物語「深坂越え(塩津街道)」

湖の畔では7月終わりから8月初旬、最も気温が高くなる頃、春に塩漬け(塩切り)しておいた樽が開き、鮒ずしの本漬けが始まる。固まった塩の中から漬け物状態のニゴロブナを取り出し、丹念に水洗いした後、天日で乾燥する。その側には近江盆地で育った旨い米が炊きあげられている。「米」と「ニゴロブナ」が出合う記念すべき「とき」だ。あゆの店きむらの鮒ずしはその出合いの「とき」から3年を過ごす。
 奈良時代より、鮒ずしの製法は絶えることなく琵琶湖畔に住む人々の暮らしのなかに受け継がれてきた。琵琶湖畔に鮒ずしが誕生した要因は、湖にニゴロブナが生息していたこと、旨い米が穫れたこと、淡水が容易に手に入る水環境があったこと、発酵に適した風土であったこと、そして、塩が豊富に手に入ることである。
 近江と越前を結ぶ「深坂越え」は、塩津街道の難所として知られていた。源氏物語で知られる紫式部も、父の藤原為時が国司として越前へ赴く際、連れられて通ったという。峠越えであったにもかかわらず、往来の盛んな重要な街道だったのだ。また、この道はかつて、平重盛が父清盛の命を受け「琵琶湖と日本海」を結ぶ壮大な運河開削計画を実行した場所でもある。琵琶湖の水運を利用し、塩、米などの物資を都へ運ぶ最短ルートを開拓しようとしたのである。しかし工事は、深坂山の岩盤に阻まれ断念せざるを得なかった。以来、江戸時代に至るまで、幾度となく運河開削計画はもちあがったが実施されることはなかった。
 平重盛は、岩盤に地蔵の姿が浮かび上がったため開削を断念したとも伝えられ、地蔵は「深坂地蔵」として今も人々の信仰を集め、大切に守られている。別名を「掘止地蔵」、「塩かけ地蔵」ともいう。「掘止」は、重盛が運河開削を断念した理由により、また「塩かけ」は、人々が地蔵に塩をかけ道中の無事を祈ったからだという。
 深坂古道は沓掛から地蔵への参道を越えると、わずかにそれと解る塩の道が続いている。